| 毎日新聞社に勤務していた藤田信勝(故人)は原爆投下直後の1945年8月10日から約半年間、丹念に日記をつけていた。藤田は、この日記に、その後を記した章を加え、1947年に『敗戦以後』というタイトルで出版。これはベストセラーになったのだが2年後に版元が倒産したため絶版になっていた。プレスプラン刊行の『敗戦以後』は、この本(原書)を著者の孫より入手し、これに基づいて復刊したものだ。
ここでは、この『敗戦以後』復刊に際して掲載された新聞や雑誌の記事、書評などをもとにしながら本書の紹介していきたい。復刊の意図、本書の魅力について感じとっていただければ幸いだ。
『敗戦以後』を復刊した際に、この本の帯に「半世紀前、日本は敗戦した」というキャッチフレーズを入れたところ、その意味に言及したのは東京経済大学教授の関沢英彦だった。彼はそのキャッチについてコラムに【「失われた十年」で「二度目の敗戦」を迎えている日本という文脈でも読める】と書いた。書籍のみならず帯文をも批評するところが博報堂生活総合研究所所長でもある人らしい。
僕が「敗戦」の2文字に傍点を打って「半世紀前、日本は敗戦した」という帯文をつけたのは相応の含みがあった。それは「現代の日本人は、敗戦当時の人々のように敗戦意識や絶望感、悔恨も持たないかわりに、将来への強い希望や生きる力をも失いつつあるのではないか」ということだった。本書には、政治にも思想にも生活にも将来に対しても懸命に考える姿が描かれている。
読み進めるにつれ、60年前の人の方がはるかに生きることに真剣だったのではないか、という疑念がわいてくる。 また関沢は、【半世紀前、空襲下にあったこの国の体験をいまのイラクの民衆と重ね合わせることも可能】とも書く。
帯文にはイラク戦争と重ね合わすものはなかったが、本書の内容をイラク戦争とオーバーラップさせて引用したのは朝日新聞社の『天声人語』である。少し長いが全文を掲載してみよう。
【イラク戦争をめぐり戦闘終結をするブッシュ大統領の演説を聴きながら、敗戦後の日本のことを考えた。演説で大統領はかつての対日、対独戦争について「体制を覆すためには都市を破壊し、国を壊すことが必要だった」と述べたが、まさに廃墟からの再出発だった
▼ブッシュ大統領はまた「米軍の良識と理想主義が敵国を同盟国に変えた」とも述べた。確かに米軍による日本占領は歴然と進んだ。日本の抵抗も、占領軍側の逸脱もほとんどなかった。「イラクの戦後」の手本にしたい。そんな思いが演説からにじみ出る。
▼日本占領はなぜうまくいったのか。敗戦の翌日、毎日新聞記者の藤田信勝は日記にこう書いた。「先づ、アメリカから学べ。われわれは再び起つて、復讐するといふやうなケチな考へからではなく、われわれ自身が亡国の民として世界史から抹殺されぬ
ために、ぜひ必要なことである」(『敗戦以後』プレスプラン) ▼彼我の力の差は明らかだった。無謀な戦争である。早くからそう思っている人もいた。長い戦争には国民は疲弊もしていた。心の底では厭戦気分を抱えていた人は多かったはずだ。敗戦だとしても戦争が終わったことにほっとしただろう。
▼戦後すぐは食べることで精いっぱいだった。その点ではいまのイラクと同じだろう。しかしイラクのように「まず治安を」というほどの混乱はなかった。 ▼藤田も日記にこうつづった。「戦争に敗れたといふ精神的屈辱感を除けば、すべてが敗戦後よくなった」。敗戦後の日本といまのイラクとの違いは大きい。】(『天声人語』)
かつての日本の軍国主義とアジア侵略を批判する朝日新聞社はメディアの姿勢として、反戦という立場から明確にアメリカのイラク攻撃に対しても反対を表明している。ところが同じ反戦という立場から、軍国主義と侵略に終止符を打ったGHQの占領政策に対してはいくぶん肯定的にならざるを得ない。
藤田の言葉をこのように引用した『天声人語』に、戦後の平和主義を支えてきた言論の、微妙な難しい立ち位置を感じた。その意味でも極めてうまく書かれた文だと思う。
かの戦争における日本の功罪、GHQの功罪、戦後日本の平和教育の功罪。これらの功と罪をともに明確にすることが必要だ。その意味でも戦後昭和のスタートラインにこそ、様々なことを考えさせてくれるヒントがある。
藤田自身の主張への評価ではなく、敗戦直後の新聞記者たちのムードをストレートにすくい上げたのは、ジャーナリストの立花隆が書いた『週刊文春』での評だった。
【著者の藤田は、昭和七年(一九三二)入社の毎日新聞記者で、第二次上海事変の従軍記者経験もあるベテラン。終戦時三十七歳、大阪で社会部副部長をしていた(その後、東京本社で論説委員。「余禄」の執筆者でもあった)。大阪警備府(軍の大阪司令本部)の担当記者だったから、一般
国民の知らないトップニュースにもいちはやく接していた。広島の原爆投下にしても、翌七日の朝には、記者たちの間で「広島が全滅らしい。それがおかしいんだ。B29わずか三機なんだ。ピカッと光ったと思ったら全市全滅」といった話が流れていた。「(原爆)とすれば、もはや、戦争は終わりだ。完全な智慧負けだ。しかし、果たして、ほんとうの原子爆弾だろうか」
八月十五日、詔勅がのった新聞は正午の天皇のラジオ放送と共に配布された。その新聞は八月十四日夜に作られた。 「今夜の社内は、さすがに興奮してゐる。酒とビールが、興奮をあふってゐる。『最後の夜!歴史的な夜!』興奮と怒号。それから軍歌の合唱。足で床をふみならしたので、ついに階下の重役室から文句が」
新聞社の編集室という最も見晴らしのいい場所からあの混乱期が見事にスケッチされる。 大阪警備府の司令長官は最後の記者会見でいう。
「今度の敗北は完全な実力の敗北である。総力戦のきびしい結果である。能率といふ点でわれわれは完全に彼におよばなかった」連合軍の進駐の打ち合わせにマニラに行った休戦協定委員の随員が帰ってきていう。「感情も儀礼も一切抜きにして事務は水の流れるやうにどんどん進んで行く。もしこれが日本ならば、一週間はゆうにかかる仕事をたつた一日で片づけてしまった」ミズーリ号上の降伏調印式も、「冷厳、事務的、しかも能率的に行われ」、きっかり二十分間で終了してしまう。
二十年八月から、二十一年五月まで、わずか半年間の日本の大転換期のさまざまな相貌が濃密にパックされており、戦後日本の原点はここにありと思わせる】(「週刊文春」での書評より抜粋)
本書『敗戦以後』には、藤田の記者の魅力もさることながら、新聞社に勤務するものにしかわからない、当時の新聞社内の内情が興味深く読める。 僕には、特に、年明けて1946年1月4日の日記が面白かった。
正月の(毎日新聞社の)新聞は、皇室記事の扱いが悪く、「役人などの間でとても評判が悪いようだ」という意見が出る。これに対し別の記者は、「神秘のベールを脱いだ天皇制に対して国民感情は急激に変化しつつあり、インフレや食料難の方が問題なので、これでいい」と反論する。しかし他社(朝日など)はかなり大きく皇室の記事を扱っており、藤田は、個人的には「(毎日も)天皇の写真は第一面に大きく掲載し拝謁記も掲載すべきだった」という意見を述べている。
『大阪でみた新聞では、読売が左翼、毎日が中間、朝日が最も現実的である。これまでも朝日は、あらゆる思想的な立場の人にひとしく関心をもたれる記事をもっとも多く載せている』と指摘し、人々に関心の持たれる戦争もの(近衛公の手記や連合艦隊の末路の連載)を載せてはどうかと提案するが、「今さら戦争を持ち出すことは有害無益だ」と却下されたことを嘆いているくだりがある。
新聞社のイデオロギー的傾向としては、後に、読売が右に振れ、朝日は左に振れていくわけだが、藤田がどういう意見をで持っていたかというよりも、当時の新聞社内でのこのような議論があったということが大変面白く読めた。どうしたら一般の人々により関心を持たれる記事がつくれるのか、というノウハウにおいて、朝日は当時より相当に長けていたようだ。
藤田信勝自身に関心を寄せたものも数多くあった。最後に、朝日新聞の記事、英国の社会学者、ロナルド・ドーアの寄稿、慶応大学の榊原英資の評を紹介しておこう。
朝日新聞の記事は、編集委員の藤森研の取材により掲載された。藤田の政治的な心情に関する部分は、以下を紹介している。 【自身の内心も記した。退社すべきだとの思いと、混乱期の情報伝達の責務との葛藤。
なぜ自分は戦争支持者になったのかを内省して「理性での決定が望ましいが、まだ世 界は力の時代だ」と考えた、と振り返っている】 【個人の自覚を伴わない民主主義は本物ではなく「日本人が理性と自律精神を獲得す
るためには、まだまだ高い授業料を払わねばならぬのかも知れない」とも書き残した】(朝日新聞本紙記事より抜粋) ロナルド・ドーアは、日本に詳しい世界的な社会学者である。藤田との個人的な親交も深かったため、本書復刊に際して寄稿をお願いした。彼は、藤田のイデオロギー的な変遷に関しても鋭く、下記のように表現している。
【終戦直後の記述は感慨深いが、日記の後半も一人の善良な人間の精神的記録として読みがいが十分ある。占領軍が到着して、一応制度が板につき始めると、過去をどう精算するかの悩みではなく、今度、益々烈しくなって、新聞ストにまで発展した組合運動と左翼政治運動に対してどういう態度を取るべきかの問題に直面する。戦後最初のメーデーになって「このごろはうっかり社内でもものいへぬ時代になった。進歩的と自認する人々が、威圧的、暴力的な態度で、自分に反対するものはすべて、『反動』の一語で片づける傾向が最近強い」と書いて敗戦日記を終えている。】(社会学者ロナルド・ドーア/『敗戦以後』への寄稿より抜粋)
榊原英資は、「榊原英資の通説を疑え」という『週刊エコノミスト』の書評欄で、彼自身の父と藤田を重ね合わせて紹介した。 【今の日本、あるいは、これから5〜10年の日本は、おそらく「敗戦以後」のような大変革のなかに投げ込まれることになる。あの時、市井の一ジャーナリストが考えたこと、それが、場面
は異なるのだが重く我々にのしかかってくるような気がする。 著者は評者の父とほぼ同年代である。ジャーナリストの芦田均の秘書官になった父も、おそらく同じようなことを考えていたに違いないと思うと感慨深い。よく父が、「世の中は必ず大きく変わる時があるから、信念をもっていさえすれば異端であることを恐れる必要はない」と言っていたが、「敗戦」の激動のなかで藤田も評者の父も制度や構造の脆さを、移ろいやすさを感じていたのだろう。
「ともかく世の中は目まぐるしいテンポで変転する。一夜あくれば、雪景色といった感じで、朝の新聞を見ると、十年も百年もかかるような変化が一度にして起こっていることがしばしばである。まさに革命期である」
まだまだ現在の日本の変化は緩やかで、「敗戦以後」のようなことは起こっていない。しかし、次第に、しかも加速度的に、日本はそういう状況に近づきつつあるように評者には思える】(榊原英資/『週刊エコノミスト』より抜粋)
2006.3.21 プレスプラン 木村浩一郎(きむらこういちろう) |